「真面目」って何でしょうね。
いつも漢字で書こうとすると、「真面目」だったか「真目面」だったか分からなくなります。
マジな面、で面が最後に来るんじゃないかと思ってしまうんですよね。
マジな目、だから目が最後なんだと言われたらそれも納得です。
いやでも真面目って目とか顔だけに限った話じゃなくて性格とか姿勢の問題ですよね。
真面目に生きなきゃいけないと常に思っていますが、果たして真面目の定義って何なのでしょう。
こんな世の中になって「憂鬱」ですよね。
でも、もしこの世に「憂鬱」という言葉がなかったら、我々は今の気持ちをどう表現するでしょう。
悲しい?辛い?嫌?不安?拒絶?逃げたい?
何かどれもしっくり来ません。
これは憂鬱な気持ちに憂鬱という言葉がピッタリはまるというよりも、「憂鬱」な気持ちというのは「憂鬱」という言葉に引っ張られてると思うのです。
言葉ありきでその感情が生まれるというか。
憂鬱の鬱はその通りうつ病の鬱です。
もしかしたら憂鬱という言葉があるから「自分は今、憂鬱だ、鬱状態なんだ」という心理が働いて、本当にうつ病になってしまう人もいるのかもしれません。
言葉を知っているから、その言葉に則した感情になってしまう、これは恐ろしい話です。
真面目、にも同じことが言えます。
真面目の定義なんてよく分からないのに「真面目に生きなきゃ、真面目に生きなきゃ」と思って生き続けるのはハッキリ言って苦痛です。
そもそも我々が認識している真面目、がいい事なのかどうかすら分かりません。
現代社会で用いられる「真面目」という言葉には、どこか自分を殺してでも愚直に、無理をして我慢をして世のため人のために努力する、という意味合いが込められているように思います。
それは立派なことですが、決して正しい生き方だとは言い切れません。
虫や動物を見てください。
彼らは真面目に生きていますか?
本能に従って、生きるために食べ、子孫を残すために繁殖行動をとる・・・それだけです。
真面目不真面目という概念はそこに存在しません。
「真面目に生きよう」なんて考えているのは人間だけ。
我々人間は、「真面目」という造り出された言葉(概念)に縛られ、自由を失い過度のプレッシャーに晒されていると言えます。
その結果、心身を蝕むことになり、精神的に追い詰められ、悲しい結末を迎える
―――実に悲しく、もったいない話です。
それでは最後に、「真面目」の定義を確認しておきましょう。
真面目の語源は「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」という漢詩に由来しているとされます。
この漢詩は「柳には緑、花には花の色があり、それぞれ個性を発揮している」という意味で、要するに「自分らしく生きている」と解釈できます。
つまり真面目の本来の定義は「自分らしく」ということなのです。
誰かの目や評価を気にしておかしな重圧を感じる必要など、どこにもありません。
真面目に生きなきゃ、と思うなら、是非とも今より「自分らしさ」を大切にしてください。(N)