『明日も世界はいつものように回り続けます。だから大騒ぎするのはやめましょう。この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです』
―――このスピーチは2013年、ニュージーランドのモーリス・ウィリアムソン議員が「同性婚」を認める法案の採決の際に語った内容です。
いわゆるLGBTの方々に向けた政策は近年、加速度的に進んでいます。
2000年以降、同性婚を法的に認めるようになった国の数が増え続けているのが何よりの証拠です。
ところがこのスピーチは多くの賞賛だけでなく、批判的な声も集めたと言います。
「関係ない」とは何事か、と。
この手の問題は非常にデリケートなものであるということを重々承知の上で言いますと、これはもう本当に関係ありません。
自分とおよそ関わりのないカップルがどうなろうと、騒ぎ立てるようなことではない。
ウィリアムソン議員の言葉を借りるならば、同性婚を認めることは『愛し合う二人の結婚を認めよう、ただそれだけ』のことです。
それなのに、このスピーチの言葉尻を捉えて出てくる批判的な意見は、人間が持つ不思議な本能がそうさせるとしか思えません。
「ドラマチック本能」は誰しもが持っている本能です。
「ドラマチック」の意味を調べると「様子・内容が、まるで劇を見るように波瀾(はらん)に富むさま。劇的。」と出てきます。
人間は意識のどこかで劇的な、感動的な、印象的な何かを求めています。
つまり何かにつけて平穏無事ではつまらない、満たされないと考えてしまうのです。LGBTの方々に関して言えば、このまま平穏無事に自分達の存在や権利が認められ、何不自由なく暮らせるようになる、ということに対して「それはそれでつまらない」、「もっと自分達に関心を持って!」と考えているのではないでしょうか。
逆境や苦難を乗り越え、辛く苦しい思いを乗り越えてやっとの思いで幸せを勝ち取る!そんなドラマ性に溢れるシンデレラストーリーを望んでいるのではないかと思えてしまうのです。
「関係ない」という紛れもない真実に対してすら批判的になるのは、自分達が特別視されていないことに対する不満のように聞こえます。
ドラマチックな方が印象に残ります。これは間違いない。
世界情勢のニュースを見ていても、どこそこで内戦やテロが起きて多くの人が犠牲になった、とか、貧困に苦しむどこそこの難民は○○秒にひとり命を落としている、とか、そんな内容ばかり耳に入ってきます。
実際には、戦争自体は減少傾向にあるという考え方が一般的であり、世界中で飢餓に苦しむ人々の割合も減り続けています。
世界は確実に良い方向へ向かっているのです。
ところがマスコミが流す報道はどれもこれも悪い情報ばかり。
その方がドラマチックで印象に残るからです。
LGBTの方々を取り巻く環境も、先述のとおり確実に良くなっています。
テレビに溢れかえるオネェタレントの多さがそれを物語っているでしょう。
ドラマチックが悪いと言っているのではありません。
ドラマ性を求めすぎるがあまり、良くなっていること、前進していることがあるという真実が見えなくなることが問題なのです。(N)