見たい、聞きたい、話したい…
ここにはそれがある。
あした使えるはなしのたね
2019年発行

「時間がない!」のはなし 2019.02.07.thu

先日とあるテレビ番組でiPhoneの機能紹介コーナーがあり、そこで「スクリーンタイム」なるものが紹介されていました。

この機能は自分のiPhoneを何に何時間使用したかが分かるという機能で、どれぐらい画面を見ていたか、どのアプリを使用していたか、はたまた何回iPhoneを持ち上げたか、まで知ることができます。

「ケータイ依存症」なんて言葉ができるくらい我々の生活に密着するようになったスマホですが、やっぱりいい事ばかりなわけはなく、悪影響を及ぼしている面があるのは容易に想像がつきます。

関連する犯罪は後を絶ちませんし、毎月の使用料は生活そのものも圧迫しています。むしろいい事って何じゃろな?と思う私のような人間もいます。

で、見てみました、私のスクリーンタイム。過去7日間の合計は26時間9分、平均すると1日あたり3時間44分、iPhoneを持ち上げた回数は86回、でした。

これが人と比べて多いのか少ないのか分かりません。土日などは子供がいじってる時間もあったりしますし。ただ思ったのは「時間あるじゃん、俺」ということ。

よく何か新しいことをやろうとしたとき、例えば読書や習い事を始めようと思ったとき「時間がない」と言って結局始めない人を今まで随分とたくさん見てきました。

でも聞きたいのは「じゃあ時間あるときっていつなの?」ということです。どういう状況になったら「時間がある」と言えるのか・・・

答えられないですよね。

あと「時間は作るもの」とかもよく言われます。でもこれもおかしい。時間なんてどう頑張っても作れません。

努力しまくれば1日が25時間になる、なんてことはあり得ないわけです。

つまり時間の価値判断基準は、長さではなくその密度だということです。

例え1分でも「読書をする!」と決めて全力で集中して本を読んだ時間には大いに価値があります。まさか1日のうちに1分の猶予もない人間なんていません。

何かにつけて「時間がない」と言ってやらない人は、短い時間でも密度の高いものにしてやる!という覚悟がない人であり、「時間は作るもの」なんかじゃなく「ある分を有効に使うしかないもの」です。

勉強を何時間やった、とか、仕事を何時間した、とか、そういうのは実はあまり意味がありません。

そもそも時間なんて誰かが決めた概念でしかなく、画一的に価値を判断できるものではないはずです。

逆に時間の密度を高めることができれば、それこそ1日を25時間分にも30時間分にもすることが可能ということが言えます。

まだまだ自分の時間は有効活用の余地がある、それに気付かせてくれたスクリーンタイム機能に少し感謝です。

スマホの数少ない「いい事」を体験できました。でも結果、そのスマホを触る時間を減らすことになるのは・・・墓穴を掘ったな、スマホくん。

あと女の子を食事に誘ったときに「なかなか時間がなくて・・・」というお断り文句は、別に密度とか覚悟とか関係なく「オメェには興味ねぇんだよハゲ!」と同意語なので気をつけてください。(N)