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あした使えるはなしのたね
2021年発行

「親しい友人」のはなし。2021.5.20

日本、米国、ドイツ、スウェーデンの4カ国を対象に実施された内閣府の調査で、日本の高齢者の約3割が「親しい友人がいない」と回答していることが分かりました。

各国それぞれの数値は日本が31.3%、米国が14.2%、ドイツが13.5%、スウェーデンが9.9%となっており、日本が突出していることが分かります。単に友人ということでなく近所づきあいの希薄さも目立っており、高齢者の孤独防止策が急務だと叫ばれているようです。

ただこれは一概に問題だと断言できません。なぜなら「友人」というものに対する定義があまりにも曖昧だからです。

学生時代や若い頃ならば、よく一緒に買い物に行く、カラオケに行く、お互いの家を行き来する、など明らかに友人と呼べるような行動を取る仲間がいて、それを友人だ、と特に深く考えずカテゴライズしていました。

ところが大人になって時間の制約が厳しくなると、学生時代はそれこそ毎日会っていたようなヤツでも平気で一年に一回とか数回という頻度に下がります。ましてこのコロナ禍でさらにそうした接触は減っているでしょう。

でもたまに会うと話に華が咲きいつまででも一緒に居られる・・・そんな仲間はきっとずっと「友人」ですよね。会う回数や頻度では友人の定義づけはできません。

もちろん高齢になっても頻繁に一緒に遊んだり他愛もない話ができる相手がいるのは素晴らしいことです。

ただその相手が、自分が苦しいとき、例えば足腰を悪くして自由に動けなくなったときに助けてくれるのかというとそんな保証もない。

友人と呼べる相手がいるから安心、ということには結びつきません。

あと難しいのは「こっちが友人だと思っていても向こうはそう思ってない」という悲しいパターンもあります。

今回の高齢者の例でも、3割が親しい友人がいないと回答したということは逆に言えば7割は「いる」と回答したということですよね。でもその7割の人たちが「コイツは俺のダチだぜ」と思っている相手は、しょうがないから話に付き合ってやってる、という認識かもしれない。

さらにこれもどうしようもないことですが、65歳以上の高齢者ならもう友人と呼べる人がこの世を去ってしまっている可能性も高いと思います。でも自然の摂理なのでどうしようもない。

「何をもって友人とするか」というのは主観的な要素が大きすぎて一概に決め付けることはできないと思います。

私個人の友人の定義は「同じ思い出を共有しているかどうか」という点です。その思い出がセンセーショナルであればあるほど深い友人だと感じてしまうので、自ずと感受性の強い幼少期や学生時代の仲間がその対象になってきます。でも大体の方がそうですよね。やっぱり大人になって職場や取引先で知り合った相手には、どこか見返りを求めてしまったり、この人は自分に何をしてくれるんだろうとか打算的な目で見てしまったりします。

だから高齢者になってしまえばますます「友人」と呼べる存在を作ることは難しいと思います。

ましてや「親しい」ともなればさらにその難易度は増します。孤独防止のためには友人を作るのではなくもっと別の何かを作ることに意識を向けるべきであり・・・

ここから紙面の続き

ズバリ、孤独防止のために作るべきは「世話を焼く対象」です。

私の祖母は私の父(つまり自分の息子)と一緒に住んでいて、もう80歳を超えています。

ところがものすごく元気。

元気と言っても足が痛い、腰が痛い、耳が遠くなった、転んで怪我した、など当然のごとく体は色んなところにガタが来ています。

でも全然、気持ちが衰えていないというか、毎日のように家事をこなしているからか家の中で存在感があるんですよね。

そして未だに、息子をあれこれ叱っています。ソファでテレビを見ながら寝てしまったり、食べ過ぎてすぐ腹を壊す息子を、母としていつまでも気にかけ、ちゃんとしなさいと叱っている。

もちろん私の父がいつまでも母親に世話を焼いてもらわないと生活できないとかそういう話ではありません。でも、わが子というかけがえのない存在に対して自分が尽くすことで、生きる意味をそこに見出しているのではないかと思うのです。

趣味と呼べるものは持ってないですし、はっきり言って友人なんておそらくゼロです。でも逞しさがあるから孤独感とは無縁です。人としての強さを感じる。自分はこのまま弱っていくから息子に世話を焼いてもらおう、なんてこれっぽっちも考えてないのではないでしょうか。

体や気力の衰えには個人差があるでしょうし、様々な事情で家族との同居ができない方も多いと思います。一人暮らしの高齢者なんて孤独に決まってるだろ、と言われたらその通りかもしれません。

ただ「友人がいる」ことが直ちに「孤独防止になる」とはどうしても思えません。

友人がいるに越したことはないけれど、結局は自分で自分の存在意義を自覚できなければ意味がないと思います。そしてその強さがあれば、孤独というものに悩まされずに済むと思うのです。

同居の家族がいないならペットだっていい。それこそ金魚やメダカだっていい。花や農作物だっていい。世話を焼いて自分を犠牲にしてでも守るべき存在が、自分の存在意義となって返ってくるのです。(N)