遅ればせながら明けましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。
コロナ禍で迎えた初めての年末年始、いかがお過ごしだったでしょうか。
従来とは全く違う雰囲気の中で迎えたこの期間中、強く感じさせられたのは「習慣の恐ろしさ」です。
とりわけ衝撃的だったのは初詣の光景。
この近隣だと熱田神宮や伊勢神宮などに、とんでもない数の人々が初詣に訪れている映像が流れ、その密度に度肝を抜かれたのです。
でまた「5、4、3・・・」とか言ってカウントダウンをやっているわけですよ。
「ゼロー!!」となって日付が変わっても、そこはコロナウイルスに侵食された世界であることに変わりないのに・・・です。
「習慣は第二の天性なり」ということわざをご存知でしょうか。
これは古代ギリシアの哲人・ディオゲネスの言葉といわれ、
身についた習慣は知らぬ間に深く染み込み、
いつしか生まれつきの性質のようになる、という意味です。
ありとあらゆるメディアで様々な政治家や専門家のお偉い方々が「生活様式を変えましょう、行動を自粛しましょう」と繰り返していますが、
誰も「生活習慣を見直しましょう」とは言わない。
これにとても歯がゆい思いがします。
今、日本人の平均年齢は48.4歳です。高っか!ってそんな話ではないですね。
ということは生まれてから48年分の「習慣」が平均的な日本人には身についているということです。約半世紀です。
時間にしたら438,000時間分です。
とんでもない蓄積量なんですよね。
「初詣に行く」という行動も、何も深く考えることなく一つの習慣として流れ作業的に行っている人々がこの日本には大勢いるということです。
これが習慣の恐ろしさです。
それはもはや天性とほぼ同意となり、自粛やリスク管理の対象にすらなっていないのではないでしょうか。
習慣を見直さない限り、劇的な変化は望むべくもありません。
初詣で何をお祈りするんでしょうか。
神様に手を合わせ、今年こそは良い年になりますように・・・と祈るのでしょうか。
別にそれは悪いことでも法律に反することでも何でもありません。自分自身のけじめとして、きっかけとして、決意を新たにすることは素晴らしいことです。
ただ、「手を合わせ拝む」という行為は自分の心に対して行っていることだということを忘れてはいけません。
祈る対象が神であれ仏であれ、そこにあるのは信仰の象徴となる物体だけで、直接的には私たちに何も与えてはくれないのです。
「祈りとは心の所作」―――とある漫画の中の名言ですが、祈るという行為は自分の心に作用することだということが分かっていれば、祈る場所なんぞどこでもいいということが分かります。
大体、神社やお寺に行ったらお賽銭が必要じゃないですか。
ケチな私はその5円がもったいなくて仕方ない。でもこれはケチとか金額の大小の問題ではありません。YouTubeの動画再生1回につき5円かかります、となったらおそらく誰も見ない。
タダで見ることが「習慣」になっているからです。
“人が密集すると分かっていても初詣に行ってお賽銭を払ってお祈りする”ことが習慣になっているということは、
“お金を払って三密の中に飛び込み感染しに行くようなもの”で、これはコロナ禍の中、変化が求められる状況下では見直したほうがいい習慣であると言えるでしょう。
初詣に限らず、我々の行動の多くは習慣によって成り立っています。
いや、支配されていると言ってもいい。
今回の感染爆発でその恐ろしさをまざまざと見せつけられた気がします。
当たり前すぎて習慣であると気付くことすらできない習慣―――そこに最大のリスクが隠れているのではないでしょうか。(N)